根無し草の女、あるいは私の「Helter Skelter」

「根無し草の女」。

若いころの私は、そう呼ばれていた。

どこへ行っても、そこに根を下ろすことができない。昨日まで大切だったものが、朝になると急に遠い場所へ移ってしまう。ひとつの場所に落ち着こうとすると、なぜか次の坂道が目の前に現れる。私はその坂道を、怖がるより先に滑り降りていた。

いま振り返ると、それはずいぶん正確な呼び名だったと思う。

私の若い頃は、ビートルズの 「Helter Skelter」そのものだった。

あの曲には、遊園地の滑り台のような上下運動がある。てっぺんまで駆け上がったと思った瞬間、身体はもう下降を始めている。下まで行けば、また上へ戻る。上と下、歓喜と失望、抱きしめられることと手放されること。その繰り返しから逃げようとしても、坂そのものが私だった。

私は男性の間を、行ったり来たりしていた。

ひとりの人の隣にいるときには、この人こそ私を止めてくれるのではないかと思った。けれど、その確信が生まれた瞬間には、もう別の方向へ身体が向いていた。愛されたいという気持ちと、自由でいたいという気持ちは、私の中では別々のものではなかった。むしろ同じ一本の滑り台の、上りと下りだった。

だから、誰かを傷つけたこともある。

誰かに傷つけられたこともある。

そして何より、自分自身がどこへ向かっているのか分からなかった。

けれど、あの頃の私は、それを「人生の失敗」とは考えていなかった。失敗という言葉には、停止してしまったものの匂いがある。私には停止する時間がなかった。上へ行けば、また下へ行く。下まで落ちれば、また上へ向かう。そうしているうちに、昨日の私と今日の私は、少しずつ別人になっていた。

その意味で、「根無し草」という言葉には、悪意だけでは説明できないものがあったのだと思う。

根がないのではなく、根を張る前に動いてしまう。

そんな女だった。

そして今日、2026年9月9日。

私は一枚のコラージュを眺めながら、あの頃の自分を思い出している。そこには遊園地があり、ギターがあり、壊れた時計があり、新聞の切り抜きがあり、笑っている人間がいて、こちらへ向かって滑り落ちてくるような文字がある。ばらばらのものが、ばらばらのまま貼り合わされている。

それが、妙に懐かしい。

なぜなら、私自身がそうだったからだ。

私はひとつの物語として生きていたのではない。恋愛も、仕事も、身体も、音楽も、出会った人たちも、別々の紙片のようだった。あとになって振り返れば、それらが一枚の大きな画面を作っていたことに気づく。

ビートルズの「Helter Skelter」も、まさにそういう曲だった。

1968年7月には、まだ別の姿をしていた。ところが9月9日、EMIスタジオでビートルズはこの曲を改めて録音し、テイク4から21まで、18回もの演奏を重ねた。前の録音よりさらに激しく、さらに荒々しく、さらに大きな音へと曲を押し進めていった。テイク21がアルバムの基礎となり、翌10日にはオーバーダブが加えられた。(The Paul McCartney project)

つまり、今日という日は「Helter Skelter」が一度演奏されて完成した日ではない。

何度も何度も、上り直し、滑り直し、そのたびに形を変えながら、ようやくあの姿に辿り着いた日なのだ。

そのことが、今の私にはとても大切に思える。

人生も、録音も、一回で完成するものではない。

あるテイクでは美しくても、次のテイクでは壊れている。あるテイクでは頂上まで行けたと思ったのに、次には途中から全部崩れてしまう。それでも、録音機は回り続ける。

18回目の失敗が、19回目の成功を連れてくることがある。

そして、最後に残った一音だけを、後世の人々は「完成品」と呼ぶ。

でも、本当はその音の中に、採用されなかった17回分の私たちもいる。

私もそうなのだと思う。

若いころの私を知る人なら、きっと「根無し草」と呼ぶだろう。

その言葉を、今は嫌いではない。

根を張らなかったからこそ、私はいろいろな場所へ行けた。いろいろな人に出会った。何度も頂上へ行き、何度も頭から下まで滑り落ちた。男性の間を行ったり来たりしながら、自分が誰なのかさえ分からなくなったこともあった。

けれど、下まで落ちた場所には、いつも次の上り坂があった。

そして私は、また登った。

今日、9月9日。

1968年のこの夜、ビートルズが18テイクを積み重ねていったその場所から、半世紀以上を隔てて、私は自分の過去を眺めている。

遊園地の滑り台も、壊れた時計も、ギターも、新聞の切り抜きも、笑い声も、失恋も、恋も、上昇も下降も、全部がひとつの画面に貼り付けられている。

人生とは、完成された一枚の写真ではなかった。

無数のテイクを重ね、そのたびに剥がれ、そのたびに貼り直されていく、巨大なコラージュだったのだ。

だから私は、若い頃の自分を責めない。

「根無し草の女」と呼ばれた私の若い頃は、「Helter Skelter」そのものだった。

そして今日、1968年9月9日にビートルズが何度も何度も滑り、転び、叫び、演奏し直したその曲が、私自身の過去と重なりながら、数多くのテイクを重ねた末に、ひとつのコラージュのように完成したのである。 (ザ・ビートルズ)


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