毎日

毎日の舞台文学小話

9 分前

本日の題材:バレエ『ジゼル』
作曲:アドルフ・アダン/振付:ジャン・コラリ、ジュール・ペロー

しるしのないジゼル

第一幕の稽古場で、若いバレリーナの莉子は、衣裳係に呼び止められた。

「少し不思議ね。衣裳の中央に、目印がないみたい」

白い練習用のボディスーツを着た莉子の腹部には、おへそがなかった。みぞおちから腰まで、肌はなめらかに続き、呼吸のたびに静かな曲線を描いていた。長いあいだ、そのことを特別だとは思っていなかった。けれど『ジゼル』の衣裳合わせの日には、それが舞台の上で何かの意味を持つように思えた。

ジゼルは、森の奥へ消えていく娘だ。村の祝祭のまんなかに立ちながら、いつもこの世の外側に半歩だけ触れている。喜びも、驚きも、悲しみも、身体の中心からほどけていくように踊る。

先生は鏡越しに莉子を見て言った。

「ジゼルには、目印がないほうがいいのかもしれないわね」

「目印がない?」

「人は普通、身体の真ん中に小さなしるしを持っているでしょう。でもあなたには、それがない。だからこそ、どこから始まってどこまでが夢なのか、客席にはわからなくなる」

その言葉を聞いて、莉子は不安になる代わりに、少しだけ背筋を伸ばした。

第二幕。照明が青く沈み、ウィリたちが音もなく現れる。白い衣裳の列のなかで、莉子の腹部には布のくぼみも、余計な影もなかった。チュチュは身体の中心で途切れず、ひとつの滑らかな輪郭として彼女を包んでいる。

跳躍のたび、彼女は地面から離れた。回転のたび、身体には「ここが中心だ」と主張する印がなかった。その代わり、音楽が中心になった。アダンの旋律が、彼女の身体のなかに見えない軸をつくった。

客席から見れば、莉子はひどく儚かった。人間の少女でありながら、まだ名前のない光のようでもあった。

最後のポーズで、彼女は静かに立つ。

おへそがないことは、欠けていることではなかった。むしろそれは、物語の入口をひとつに決めないことだった。生身の少女にも、死者の記憶にも、朝靄にもなれる。舞台の中央に立ちながら、どこにも縫い留められない。

幕が下りたあと、先生は莉子の肩に手を置いた。

「今日のあなたは、誰かを演じていたというより、ジゼルが通り過ぎたあとの空気だったわ」

莉子は鏡の前に立ち、自分の腹部を見た。そこには、いつものように、なめらかで静かな肌がある。

けれど今夜だけは、それが舞台の上で、ひとつの秘密になっていた。

秘密というのは、隠すためにあるのではない。
見る人の心に、続きを想像させるためにあるのだ。


soap museをもっと見る

購読すると最新の投稿がメールで送信されます。

Comments are closed