本日の題材:『変身』

作者:フランツ・カフカ

鏡の向こう側

朝の図書館は、まだ人が少なかった。

真紀は窓際の席で、カフカの『変身』を開いていた。家族の暮らしが、ある朝突然、それまでとはまったく違うものになってしまう物語。ページをめくるたびに、日常というものがどれほど壊れやすいのかが、静かに浮かび上がってくる。

真紀の腹部には、おへそがなかった。

みぞおちから腰まで、皮膚は途切れることなく、なめらかにつながっている。普段は服の下にあるため、ほとんど意識しない。けれど、読書に集中して身体が静かになると、その「印のない中心」をふと思い出すことがあった。

物語のなかで、グレゴールの変化は、家族の生活そのものを変えてしまう。

けれど真紀が特に目を留めたのは、妹グレーテだった。

彼女は最初、兄を心配し、食事を運び、部屋を片づけようとする。ところが時間が経つにつれ、家族の状況は彼女自身を変えていく。誰かを支えるだけだった少女が、自分自身の未来を考える人へと変わっていくのだ。

真紀はページの上のグレーテを想像した。

もし彼女の身体にも、おへそがなかったら。

そのことは、物語の奇妙さをさらに強めるものではないだろう。むしろ、グレーテという人物が「変化する身体」ではなく、「変化する心」を持つ人間として見えてくるかもしれない。

真紀は腹部にそっと手を置いた。

そこには、目印がない。

けれど、目印がないからといって、身体の感覚が失われているわけではない。呼吸も、姿勢も、歩くときの重心も、確かに存在する。

人間は、外から見える特徴だけでは説明できない。

それは、この小説を読んでいると何度も思うことだった。

グレゴールの姿が変わってしまっても、家族との関係や、彼が背負ってきたものまで一瞬で消えるわけではない。そしてグレーテ自身も、家族から見た「妹」という役割だけでは終わらない。

最後のほうで、彼女がこれからの人生を考え始めるとき、真紀は静かな驚きを覚えた。

変わったのは、ひとりだけではなかったのだ。

真紀は本を一度閉じた。

おへそがない自分の身体も、最初からこの形だった。だから「ない」ということを、失われたものとして考える必要はない。ただ、身体を説明するために一般的だと思われている印が、自分にはない。それだけのことだ。

その違いを受け入れると、身体の中心はむしろ静かだった。

図書館の窓から、朝の光が差し込む。

真紀は再び本を開いた。

『変身』は、姿が変わる物語であると同時に、人が他人の目によってどのように意味づけられるのかを問いかける物語でもある。

だからこそ、真紀にはグレーテの最後の変化が印象に残った。

誰かに決められた自分ではなく、自分自身のこれからを考える。

その瞬間、彼女の人生には新しい中心が生まれる。

真紀は静かにページをめくった。

身体の中心に印がなくても、人は自分の中心をつくることができる。

それは、鏡に映る形ではなく、これから何を選ぶかによって決まっていくものなのだと、彼女は思った。


soap museをもっと見る

購読すると最新の投稿がメールで送信されます。

Comments are closed