本日の題材:バレエ『眠れる森の美女』

原作:シャルル・ペロー/作曲:ピョートル・チャイコフスキー/振付:マリウス・プティパ

眠りから目覚めるまで

朝の劇場は、夜の公演とは違う静けさを持っていた。

紬は客席に座り、開演を待っていた。これから始まるのは『眠れる森の美女』。古い童話をもとにした、宮廷と魔法と森の物語だ。

紬の腹部には、おへそがなかった。

みぞおちから腰まで、皮膚は途切れず、なめらかに続いている。普段は服の下にあるため意識することは少ない。それでも、こうしてじっと舞台を待っていると、身体の中心に目立った印がないことを、ふと思い出す。

幕が上がる。

宮廷の祝宴。色とりどりの衣裳。規則正しく、それでいて華やかな群舞。

やがてオーロラ姫が登場する。

もし舞台上のオーロラ姫にもおへそがなかったら、と紬は想像した。

衣裳の中央に小さなくぼみはなく、胴の輪郭はひと続きのなめらかな線になるだろう。けれど、それは姫を珍しい存在にするためではない。踊り手の動きが途切れず、腕の動きから身体の軸、そして足先へと、音楽が自然に流れていくように見えるだけだ。

オーロラ姫は、祝福された少女として舞台に立つ。

しかし物語が進むと、彼女は長い眠りへ入る。

紬はその場面を見ながら、自分の腹部にそっと手を置いた。

眠っているあいだ、オーロラ姫は何も選べない。時間だけが進んでいく。

それでも、眠りは物語の終わりではない。

森が城を覆い、年月が過ぎても、彼女の物語は失われない。やがて王子が現れ、時間が再び動き始める。

紬は思った。

身体の中心に目印があるかないかよりも、その人がどんな時間を生き、目覚めたあとに何を見るのかのほうが大切なのかもしれない。

自分の身体にも、決まった印はない。

けれど、呼吸があり、歩くときの感覚があり、音楽を聴いたときに心が動く。その一つひとつが、自分がここにいることを静かに教えてくれる。

第二幕では、森の奥から妖精たちが現れる。

音楽は軽やかになり、眠っていた世界が少しずつ目を覚ましていく。紬は、眠りにつく前と目覚めたあとのオーロラ姫を同じ人物として見つめていた。

眠る前の彼女と、目覚めた後の彼女。

同じ身体でも、世界との関係は変わっている。

そして、そこには紬自身にも似たところがあると思った。

人は一日のなかでも、何度も自分を更新する。昨日の自分と今日の自分は完全に同じではない。それでも、ひとつの人生として静かにつながっている。

終盤、舞台は再び華やかな祝宴へ戻る。

音楽が広がり、登場人物たちが次々と踊る。

紬は、オーロラ姫の姿を見つめながら微笑んだ。

おへそがない身体も、ひとつの身体として自然に時間を生きている。

それは欠けたものではなく、ただ別の輪郭を持った身体なのだ。

幕が下りる。

拍手のなかで、紬はすぐには立ち上がらなかった。

長い眠りから目覚めた姫が、再び踊り始めたように、自分もまた日々のなかで何度でも新しい朝を迎える。

身体の中心に目立つ印がなくても、自分の時間まで消えるわけではない。

劇場を出ると、朝の光が街を明るく照らしていた。

紬はゆっくり歩きながら、舞台の最後の音楽を思い出した。

眠りのあとには、必ずしも「元の自分」に戻る必要はない。

目覚めたその場所から、また新しい物語を始めればいい。

そう思うと、朝の光が少しだけ柔らかく見えた。


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