カラヤンのウェーベルン/管弦楽のためのパッサカリアほか

独DGG 2531146 STEREO

研ぎ澄まされた造形が放つ、静寂のダイナミズム

文:[ライター名 / または anonymous]

舞台に立ち、自らの肉体を極限までコントロールして表現を紡ぐとき、私は「究極の簡潔さ」について思考を巡らせる。過剰な装飾を削ぎ落とし、鍛え抜かれた身体能力と知性によって空間に描かれる、一瞬の軌跡。その凝縮された表現こそが、観る者の心を揺さぶる強靭な美しさを宿すことを、私は舞台の上で学んできた。

ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が、ドイツ・グラモフォンに残したこのアントン・ウェーベルンのアルバム(2531 146)を聴いたとき、私はダンサーとしての身体感覚を激しく揺さぶられるような感覚を覚えた。

ここに響いているのは、まさに「極限まで純化された、音の身体技法」そのものだからだ。

冒頭の『パッサカリア』。後期ロマン派の豊潤な響きを背景に持ちながらも、音楽はすでに冷徹なまでに統制されている。カラヤンが引き出すベルリン・フィルの重厚な音色は、大理石の彫刻のように滑らかで、それでいて揺るぎない構造を露わにする。この起伏に富んだダイナミズムは、呼吸ひとつで劇場の空気を支配する、表現者のしなやかな躍動を彷彿とさせる。

そして、音楽がさらに凝縮される『6つの管弦楽曲』から『交響曲』へと至るプロセスは、言葉を失うほどにスリリングだ。

ウェーベルンが数秒のフレーズ、あるいは、たった一音に込めた静寂と音の配置。カラヤンは、ベルリン・フィルの圧倒的な美学を用いて、その「点と線」の音楽に、生命の息吹と体温を吹き込んでいる。

それは、伝統的な様式美を一つひとつ解体し、純粋な「響きの本質」に到達するプロセスだ。唐突に遮断される響き、ふっと空間に浮かび上がる音色は、舞踊の中で一瞬だけ動きを止めるポーズ(静止)の緊張感と完全にシンクロする。

カラヤンはこのウェーベルンの極小の宇宙の中に、生命力あふれるロマンの血脈を流し込んでみせた。

無駄な音はひとつもない。しかし、鳴り響く音のすべてが、確かな意志と熱量を帯びている。
これほどまでに知的で、これほどまでに身体的なウェーベルンを、私は他に知らない。余計なものを削ぎ落とし、純粋な音そのもので軽やかに舞うその響きに、私は自らの表現者としての本能を強く刺激されるのだ。

ウェーベルン/管弦楽のためのパッサカリア

6つの管弦楽曲 作品6

交響曲 作品21

耀子さんのご指定どおり、冒頭の文章をそのまま導入として置き、そこから《パッサカリア》→《6つの管弦楽曲》→《交響曲》へと、ヴェーベルンの作風が「後期ロマン派的な豊麗な響き」から「極端な凝縮」、さらに「十二音技法による古典的な構築」へ移ってゆく過程を辿ります。

「あらえびす」こと野村胡堂の音楽評論を思わせる、やや古風で平明な批評調を意識しながらまとめました。


アントン・ヴェーベルン

――音の森から、一粒の音へ

ヴェーベルンは寡作家であり、生前に出版された作品は、わずか31曲しかない。しかしながら、ある程度の長い経歴を持つ作曲家がそうであるように、ヴェーベルンは時期ごとに音楽を変化させていった。シェーンベルクに入門してから完成させた最初の作品が、管弦楽のための《パッサカリア ニ短調》作品1(1908年)である。パッサカリアは古い音楽形式のひとつであり、後にヴェーベルンが見せた古い音楽形式への関心(《交響曲》にみられるカノンの利用)の萌芽が見出される。構成的には、ブラームスの《交響曲第4番》フィナーレの前例に倣っているが、和声的に見ると進歩的で、オーケストレーションは尊敬していたブルックナーやマーラーの影響が認められるものの、変奏される主題には、お互いに逆行形の反行形を成している部分があり、この主題が弦のピツィカートによって途切れ途切れに提示されるなど、後期作品を彷彿とさせる個性的になっている。

この作品を聴くと、まず驚かされるのは、その若いヴェーベルンが、実に堂々たる管弦楽作曲家であったことである。

後年のヴェーベルンしか知らない人ならば、彼の音楽を、僅か数分の間に数個の音が閃いて消える、いわば音楽の細密画家のように想像するかもしれない。ところが作品1の《パッサカリア》には、まだ大きな森がある。弦があり、木管があり、金管があり、その森の奥から、ブラームスやブルックナー、マーラーの影が、折々に姿を現わすのである。

もっとも、その森は単なる模倣ではない。

低い弦に置かれたパッサカリアの主題は、幾度も姿を変えながら進んでゆく。古い形式の器の中へ、当時としては極めて新しい和声感覚を盛り込んだところに、この若い作曲家の非凡さがある。しかも、主題の内部には、後年の彼が好んで用いる対称的な音程関係を思わせる構造が潜んでいる。

だから《パッサカリア》は、過去と未来との境目に立つ作品なのである。

ブラームスを思わせながら、ブラームスではない。マーラーの巨大な管弦楽を思わせながら、マーラーの世界へは入ってゆかない。むしろ巨大な交響的世界の中から、ヴェーベルン自身の、極端に純粋な音の姿が、少しずつ浮かび上がって来るのである。

そして、その僅か一年後、ヴェーベルンは突然、この大きな森を切り倒してしまう。

それが1909年の《6つの管弦楽曲》作品6である。


《6つの管弦楽曲》作品6

――巨大な管弦楽から、音の一滴へ

《6つの管弦楽曲》は、作品1から僅か一年後に書かれた。

ところが、この二つの作品を続けて聴けば、同じ作曲家の手になるものとは容易に信じられないほど、その姿は変わっている。

《パッサカリア》では、主題があり、変奏があり、長い音楽の呼吸がある。ところが《6つの管弦楽曲》では、音楽が極端に圧縮されている。第一曲から第六曲まで、それぞれは非常に短く、わずかな音の動きが、ほとんど一瞬のうちに現われて消えてゆく。

ここに、いわゆる「アフォリズム的なヴェーベルン」が初めて鮮明な姿を現わすのである。IRCAMも、この1909年から1914年にかけての作品群を、ヴェーベルンが無調へ移行し、さらに「箴言的」な簡潔さへ進んだ重要な時期として捉えている。(Ressources IRCAM)

しかし奇妙なのは、これほど小さな音楽を書きながら、ヴェーベルンが用いた管弦楽は、むしろ《パッサカリア》より巨大であることだ。

原典版では、四本のフルート、六本のホルン、六本のトランペット、六本のトロンボーン、二台のハープ、チェレスタ、多種の打楽器などを含む大編成が要求される。ところが、その巨大な楽器群は、マーラーのように一斉に鳴り渡ることがほとんどない。(Universal Edition)

これは実に面白いことである。

大きな家を建てながら、その家には一人しか住んでいないようなものだ。

例えば第一曲の冒頭では、僅かな旋律がフルートからトランペットへ、再びフルートへ、そしてホルンへと受け渡されてゆく。音は一つの楽器に長く留まらない。まるで暗い部屋の中で、蝋燭の火が一瞬だけ別の場所へ移ったように、音色そのものが音楽の出来事となるのである。(Universal Edition)

ここでは「旋律」と「音色」とを分けて考えることが難しい。

旋律が鳴っているというより、音色が旋律を作っている。

この点でヴェーベルンは、従来の管弦楽法から一歩外へ出てしまった。巨大なオーケストラを使いながら、彼が求めているものは、巨大な音ではない。一つ一つの音を、もっとも鮮明な状態で存在させることなのである。

第4曲の「葬送行進曲」では、その巨大な編成が一転して重い塊となる。金管と打楽器による暗い響きが押し寄せるが、それも長々とは続かない。悲しみさえ、ヴェーベルンの手にかかれば、長い慟哭ではなく、一瞬の凝縮された記憶になる。

この作品には、1906年に亡くなった母への思いが深く結びついている。ヴェーベルン自身がシェーンベルクへの手紙で、第一曲は母の死を知らずにいた最後の希望、第3曲は母の棺に置いたエリカの花の香り、第4曲は葬送の印象など、作品に結びついた個人的な記憶を語っている。(Universal Edition)

だから、この音楽の短さは、単なる作曲上の実験ではない。

悲しみを長く語ることが出来ないほど、その悲しみが深かった――そう考えることも出来る。

一つの音が鳴り、次の音が来る。その間に沈黙がある。

その沈黙こそが、ヴェーベルンの音楽では、音と同じくらい重要なのである。

ところが、ヴェーベルンは後年、この作品をそのまま放置しなかった。

1928年、彼は《6つの管弦楽曲》を大幅に改訂し、巨大な編成を縮小した。本人は「余分なものをすべて切った」という趣旨の言葉をシェーンベルクに書き、さらにベルクには、改訂された楽譜が「古いハイドンの楽譜のように見える」と述べている。(Henk Guittart)

ここに、ヴェーベルンの変化が実に端的に現われている。

1909年の彼は、巨大な管弦楽の中から一滴の音を取り出した。

1928年の彼は、さらにその一滴から余分なものを取り去った。

そして、その先に待っていたのが、《交響曲》作品21である。


《交響曲》作品21

――音を並べることから、音を建築することへ

《交響曲》作品21は、1927年から28年にかけて作曲された。

これを《パッサカリア》と比較すると、まるで一人の作曲家が、二十年ほどの歳月をかけて自分自身を削り続けた結果、最後に残った結晶を見るような気がする。

《パッサカリア》には、まだロマン派の大きな身振りがある。

《6つの管弦楽曲》では、その身振りが砕かれ、短い音の断片となった。

そして《交響曲》では、その断片が、今度は厳密な秩序の中に組み立て直されるのである。

この作品は二楽章から成るが、その内部には驚くほど精密な構築法が隠されている。第一楽章では反行形による二重カノン、第二楽章では主題と変奏という古典的な形式が用いられている。そして、その構造を十二音技法が支えている。(Ressources IRCAM)

ここで重要なのは、ヴェーベルンが十二音技法によって「自由に音を並べられるようになった」のではないことである。

むしろ反対である。

彼は、十二音技法によって、音楽をさらに厳しく統制した。

音はもはや、ロマン派のように感情の流れによって自由に動くのではない。一つの音が次の音を呼ぶ理由があり、その音の位置には、構造上の必然がある。

しかも、ヴェーベルンの十二音列そのものが、中心を境として対称性を持つように構成されている。十二の音は単なる十二個の材料ではなく、互いに照応し、反転し、鏡のような関係を作る。(Ressources IRCAM)

このため、《交響曲》を聴いていると、極めて小さな音しか鳴っていないのに、音楽の背後に巨大な建築物が立っているように感じられる。

これは不思議な経験である。

耳には、クラリネットが一声を発し、ホルンがそれに応じ、弦が細い線を描き、ハープが一音を置く。

それだけなのに、その一音が勝手に鳴っているのではないことが判る。

一つ一つの音が、見えない糸によって結ばれている。

ヴェーベルンは、ついにここまで来たのである。


三つの作品を並べてみると

この三曲を順に聴くならば、ヴェーベルンの芸術の変化は、実に明瞭である。

《パッサカリア》作品1では、
「大きな音楽の中に、未来の萌芽がある。」

《6つの管弦楽曲》作品6では、
「大きな音楽そのものを破壊して、音の一瞬を残す。」

そして**《交響曲》作品21**では、
「その一瞬の音を、厳密な秩序によって再び大きな音楽へ組み立てる。」

つまりヴェーベルンの歩みは、単純な「大から小へ」という縮小ではない。

巨大なロマン派的世界 → 音の断片 → 数学的な秩序を持った小宇宙

という変化なのである。

この意味で、彼は単に「短い曲を書く作曲家」ではない。

音楽から余分なものを一つずつ取り除き、最後に残った一つの音に、交響曲全体と同じだけの意味を担わせようとした作曲家なのである。

《パッサカリア》の冒頭には、まだ森がある。

《6つの管弦楽曲》では、その森が一瞬の光景にまで凝縮される。

そして《交響曲》では、森そのものは消えてしまう。しかし、そこに生えていた一本一本の木の位置まで判るような、精密な設計図だけが残る。

だからヴェーベルンの音楽は、小さい。

しかし、その小ささは貧しさではない。

一個の宝石を手のひらに載せて、その中に山河のすべてが閉じ込められているのを見るような小ささである。

そして、その宝石を最初に光へかざした時、まだ若いヴェーベルンの《パッサカリア》の、深いニ短調の響きが、遠いところから聞こえて来るのである。

それはブラームスの影であり、ブルックナーの影であり、マーラーの影である。

しかし、その影の中から、やがて誰のものでもない、一個の小さな音が立ち上がって来る。

その音こそが、ヴェーベルンなのである。

終戦直後の混乱期に起きたこの悲劇的な歴史を、お子様にも分かりやすく、命の尊さや不条理さが伝わるよう、物語仕立ての伝記として創作しました。


闇夜に消えた一筋の光 〜作曲家アントン・ヴェーベルンの最後の日〜

いまからずっと昔、オーストリアという国に、アントン・ヴェーベルンという音楽家がいました。

アントンは、もともとは広い領地を持つとても豊かな貴族の生まれでした。名前にも貴族のしるしである「フォン」がついていましたが、国が新しくなったとき、「これからはみんなと同じ、一人の人間として生きよう」と、自分からその特別な名前を捨てた、とても実直で誇り高い人でした。

アントンが作った音楽は、それまでのきらびやかな音楽とは少し違っていました。まるで夜空にきらめく星を一つずつ拾い集めて、ガラスの細工を作るような、静かで、とても透き通った、誰も聴いたことがない新しい音楽でした。

しかし、恐ろしい戦争が始まると、国を支配したナチスというグループは、アントンの音楽を「こんなものは音楽ではない!」と激しく責め立て、演奏することを禁止してしまったのです。

「いつか必ず、また自由に音楽が作れる平和な日が来る」

アントンはそう信じて、じっと苦しい時代を耐え忍びました。

◇

1945年の夏、長かった戦争がようやく終わりました。
アントンは、ウィーンという大きな街を離れ、自然豊かな山の中にある「ミッタージル」という町の、娘たちの家へ避難していました。

「これでやっと、誰にも邪魔されずに、新しい音楽をたくさん書くことができるぞ」

61歳になっていたアントンは、心からホッとして、これからの未来に胸を膨らませていました。しかし、戦争が終わったばかりの街は、まだ本当の平和を取り戻してはいませんでした。街には外国の兵隊たちがたくさん見回りに来ており、人々はいつもピリピリと緊張していたのです。

運命の日は、9月15日の夜にやってきました。

その日の夜、アントンの家には、かわいい孫たちがすやすやと眠っていました。家の中はとても静かでした。
アントンは、少し心を落ち着かせようと、大好きなタバコを一本手に取りました。子どもたちの眠りを妨げないように、そっと暗いベランダへと足を進めます。

外は、月明かりもない真っ暗な夜でした。
アントンはポケットからマッチを取り出し、シュッと火をすりました。

暗闇の中に、ぽっと小さな、赤い光が灯ります。

しかし、そのとき、家のまわりを厳しく警戒していたアメリカの兵隊たちが、その光を見逃しませんでした。

実はその頃、街では悪い人たちが隠れてあやしい取引(闇取引)をしており、兵隊たちは「スパイや悪者が、暗号の合図を送り合っているかもしれない」と、ひどく神経を尖らせていたのです。

暗闇に浮かんだ、タバコの一筋の火。
それは、音楽を愛する優しいおじいさんがつけただけの光でした。しかし、暗闇に怯えていた兵隊たちの目には、それが「スパイが仲間に送った、攻撃の合図(暗号)」に見えてしまったのです。

「危ない! 敵の合図だ!」

勘違いをした兵隊の手から、激しい銃声が響き渡りました。

「……もう、終わりだ」

アントンはそう呟き、静かに倒れました。大好きな音楽をもう一度思いきり作れるはずだったその命は、戦争が生んだ「悲しい勘違い」によって、あっけなく奪われてしまったのです。

◇

アントンが亡くなったあと、世界中の音楽家たちは「なんて素晴らしい音楽を作る人を、私たちは失ってしまったのだろう」と、その死を涙を流して悲しみました。そして、彼が残した数少ない曲は、宝物のように大切に演奏されるようになりました。

もし、あの夜、悲しい誤解が起きなければ、アントンはもっとたくさんの美しい音楽を私たちに届けてくれたかもしれません。

暗闇の中で起きたこの悲劇は、戦争がいかに人々の心を恐怖で狂わせ、大切なものを奪ってしまうかを、今も私たちに静かに伝えています。


このお話のように、ヴェーベルンの最期は「スパイ活動の合図」と見間違えられた歴史的悲劇として、今も音楽史に深く刻まれています。

読まれた感想や、さらに当時の時代背景(ナチスと音楽の関係など)について詳しく知りたい点があれば、いつでも教えてくださいね。

はい。まず一点だけ、史実として慎重にしておきたいところがあります。
「タバコの火を、スパイ活動の暗号・合図と誤認して射殺された」という説明は、長く流布してきた逸話ですが、現在の研究では単純な「信号の見間違い」だけでは説明できないとされています。確実なのは、1945年9月15日、ミッタージルでヴェーベルンが家の外で煙草(資料によっては葉巻)を吸っているところ、米軍兵レイモンド・ベルに撃たれて死亡したことです。娘婿の闇市場取引と逮捕が直前に起きていました。IRCAMも死因について複数の説を挙げ、従来の「悲劇的な誤射」説には疑問を呈しています。(Ressources IRCAM)

そのため児童向け伝記では、「スパイの暗号と見間違えた」と断定せず、戦争の終わった直後の混乱と疑心暗鬼のなかで、一人の音楽家が取り返しのつかない誤解の犠牲になった、という形にすると、悲劇性を保ちながら史実にも忠実です。

以下、その流れで物語にします。


音の星を集めた人

――アントン・ヴェーベルン 最後の日

ウィーンという町には、昔から音楽がたくさん住んでいました。

宮殿の窓からはオーケストラの音が聞こえ、教会の塔からは鐘が鳴り、街角のカフェでは、詩人や画家や音楽家たちが、これから世界がどう変わってゆくのかを語り合っていました。

1883年の冬、そのウィーンに、一人の男の子が生まれました。

名前は、アントン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヴェーベルン。

ヴェーベルン家は、古くから続く貴族の家でした。

けれど、アントンは自分の身分を誇るような少年ではありませんでした。

彼が大切にしたのは、家の紋章でも、立派な名前でもありません。

音でした。

ピアノの音。

チェロの音。

鳥の声。

風が木の葉を揺らす音。

そして、何よりも、音と音のあいだにある、静かな沈黙でした。

やがて彼はウィーン大学で音楽学を学び、アルノルト・シェーンベルクという先生に出会います。

そこでアントンの人生は、大きく変わりました。

「音楽は、もっと自由になれる」

シェーンベルクは、そんな未来を見つめていました。

アントンもまた、その未来へ歩いてゆきました。

そして、彼は少しずつ、これまで誰も聞いたことのないような音楽を書き始めます。

長い旋律ではありません。

大きな交響曲でもありません。

ほんの一瞬だけ鳴る音。

一つの音から、別の音へ渡される小さな光。

それを大切に拾い集めるように、ヴェーベルンは作曲しました。


「フォン」を捨てた作曲家

第一次世界大戦が終わると、長いあいだ続いていたオーストリア=ハンガリー帝国がなくなりました。

国の形が変わりました。

社会も変わりました。

そして、貴族制度も廃止されました。

アントンは、それまでの名前にあった「von」という文字を外しました。

「フォン」は貴族であることを示す言葉でした。

こうして彼は、アントン・フォン・ヴェーベルンではなく、ただの、

アントン・ヴェーベルン

になったのです。

けれど、彼にとって、それは名前を失うことではありませんでした。

むしろ、音楽家として生きることを選ぶような、静かな決意だったのかもしれません。

ところが、その後の世界は、アントンが望んだようには変わってくれませんでした。


音楽を憎む時代

1938年。

ナチス・ドイツがオーストリアを併合しました。

ウィーンの街には、これまでとは違う旗が掲げられました。

そして、ヴェーベルンたちの音楽は「退廃した音楽」として排斥されるようになります。

シェーンベルクはすでに国外へ去っていました。

親しい友人だったアルバン・ベルクも、もうこの世にはいません。

ヴェーベルンの音楽を演奏する場所は、ほとんどなくなってしまいました。ナチ政権下では出版や演奏も禁じられ、彼の生活は経済的にも苦しくなっていきました。(Anton Webern)

それでもアントンは、音楽を書くことをやめませんでした。

小さな机に向かい、

五線紙をひろげ、

鉛筆を持つ。

そして、一つの音を書く。

次の音を書く。

また、その次の音を書く。

世界がどれほど騒がしくても、五線紙の上だけは静かでした。

そこでは、誰もヴェーベルンの音楽を禁止することができなかったのです。


戦争の終わり

1945年。

戦争が終わろうとしていました。

けれど、戦争は終わるからといって、すぐに悲しみが終わるものではありません。

ヴェーベルンの息子ペーターも、その年、戦争の犠牲になりました。

家族を失い、ウィーンも危険になり、ヴェーベルン夫妻はザルツブルク近郊のミッタージルへ移ります。そこには娘たちや孫たちも避難していました。(Anton Webern Gesamtausgabe)

小さな町でした。

山々に囲まれた場所でした。

戦争で壊れた世界から、少し離れたところにあるような町でした。

アントンは、そこで生き延びようとしました。

そして、心の中では、きっと考えていたのでしょう。

「戦争が終わったら、また作曲できる」

「これから新しい音楽を書くことができる」

「まだ、書いていない音楽がある」

彼の最後の完成作は1943年の《カンタータ第2番》作品31でした。戦争が終わったとき、彼が新しい作品を書き始める可能性は十分にありました。(Store norske leksikon)


1945年9月15日の夜

その日の夕方。

アントンは娘の家にいました。

家族が集まっていました。

戦争は終わっていました。

けれど、まだ世の中は平和とは呼べませんでした。

町には占領軍の兵士がいて、食べ物や物資も不足していました。

人々は疑い深くなっていました。

誰が敵なのか。

誰が味方なのか。

誰が何を隠しているのか。

そんな不安が、まだ空気の中に残っていたのです。

そのころ、ヴェーベルンの娘婿が闇市場での取引に関わっていました。そして、その夜、米軍側との取引をめぐって逮捕される出来事が起こります。ヴェーベルン自身は、その事情を知らなかったとされます。(ウィーン新聞)

家の中では、孫たちが眠っていました。

アントンは煙草を吸おうと思いました。

けれど、子どもたちを起こしたくありません。

そこで彼は、家の外へ出ました。

夜の空気は冷たかったことでしょう。

山の町の夜でした。

戦争が終わったばかりの、まだどこか落ち着かない夜でした。

アントンは煙草に火をつけました。

そして、ほんの少し、煙を吸いました。

そのときでした。


三発の銃声

銃声がしました。

一発。

そして、もう一発。

さらに一発。

音楽家だったアントン・ヴェーベルンは、銃声という音を、最後に聞くことになりました。

彼は家の中へ戻りました。

「撃たれた」

そう言ったと伝えられています。

そして、そのあと、

「もう、終わりだ」

という言葉を残しました。

1945年9月15日。

アントン・ヴェーベルンは、61歳で亡くなりました。(ウィーン新聞)


もし、あと十年生きていたら

ヴェーベルンが亡くなったとき、世界はようやく戦争から抜け出したところでした。

彼の音楽が自由に演奏される時代も、ようやく始まろうとしていました。

皮肉なことに、ヴェーベルンの音楽は、彼が死んだあと、急速に知られるようになります。

戦争の終わったヨーロッパで、若い音楽家たちは彼の楽譜を見つけました。

そして驚きました。

「こんな音楽が、もう何十年も前に書かれていたのか」

ヴェーベルンの小さな音。

短い曲。

音と沈黙。

極端に研ぎ澄まされた構造。

それらは、戦後の新しい音楽に大きな影響を与えることになります。

けれど、ヴェーベルン自身は、それを見ることができませんでした。

もし、あと十年生きていたなら。

もし、あと二十年生きていたなら。

戦争のあと、彼はどんな音楽を書いたのでしょう。

《交響曲》作品21のさらに先には、どんな世界があったのでしょう。

もっと短く、もっと透明な音楽だったのでしょうか。

それとも、意外なほど大きな作品を書いたのでしょうか。

それは誰にも分かりません。

ただ、一つだけ確かなことがあります。

ヴェーベルンの机の上には、まだ書かれていない音楽がありました。

五線紙の上には、まだ空白が残っていました。


最後に残ったもの

アントン・ヴェーベルンは、貴族の家に生まれました。

けれど、「フォン」を捨てました。

帝国がなくなりました。

戦争が起こりました。

彼の音楽は禁じられました。

友人を失いました。

息子を失いました。

そして、ようやく戦争が終わったとき、その新しい世界を自分の目で見ることなく、命を奪われました。

なんという皮肉でしょう。

彼は、音楽から余分なものを一つずつ取り除いていった作曲家でした。

そして最後には、自分自身の人生まで、戦争という巨大な出来事によって、突然断ち切られてしまったのです。

けれど、ヴェーベルンの音楽は消えませんでした。

静かな音は、静かだからこそ遠くまで届きます。

一つの音。

次の音。

そのあいだの沈黙。

その沈黙の向こう側から、いまもヴェーベルンの音楽が聞こえてきます。

それは、

「まだ、ここに音楽があります」

と、小さな声で語りかけているようです。

そして私たちは、ふと考えます。

もし1945年9月15日の夜、あの銃声が鳴らなかったなら。

もし彼がもう少し長く生きていたなら。

ヴェーベルンは、あといくつの小さな星を、五線紙の上に置いてくれたのでしょうか。

その答えだけは、もう永遠に聞くことができません。

だからこそ、彼が残した一つ一つの音が、いっそう大切に聞こえるのです。


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