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🌅 祭りの朝
熊本の祭りの朝だった。
酷暑日が続いたかと思えば、台風がいくつも通り、雨雲が居座る日もあった。線状降水帯という言葉まで身近に聞くようになった夏の終わりで、庭の土は乾きすぎた日と湿りすぎた日を繰り返していた。近年の九州では、猛暑や台風、大雨の影響が同じ季節に重なることも珍しくない。 (tenki.jp)
伯父の家の庭には、祖母が遺した菜園がある。
いまは真夏が、梨花を手伝いたい一心で、その世話をしていた。水のやりすぎを注意され、葉の色を見ては首をかしげ、それでも毎日見に行く。子どもの手つきではあっても、土に向かう目は真剣だった。
その朝、真夏は歪なピーマンを両手で持っていた。
形はいびつで、緑の中に赤が差し、へたの近くは赤紫にも見える。季節と天気に揺さぶられながら、それでも実った色だった。
「これ、きれい」
真夏が言うと、梨花は短くうなずいた。
「うん。使おう」
🍚 さっと整う朝食
台所では、梨花がもう朝食を仕上げていた。
祭りの日だからといって、気負ったものではない。さっとこしらえられて、体に入っていきやすい、夏野菜を使った朝の料理だった。
豚バラスライス。
薄く切ったゴーヤ。
赤くなりかけたピーマンも、同じ大きさにそろえて切る。
油で炒め、火が回ったところへ砂糖醤油をひとまわしする。
それから少しだけ煮含める。甘みと塩気がなじんで、豚の旨みが野菜へ移るころには、鍋の中の色が落ち着いてくる。
汁ものは別にあった。
一口大のかぼちゃ、千切りの玉ねぎ、薄切り椎茸、えのきの味噌汁。
飯にはごま塩を軽くふる。
小皿には塩昆布と梅干しと味噌漬け。
どれも特別ではない。
けれど祭りに向かう日の体には、こういうものがいちばんよかった。
🥢 食べる手が進む
食卓についた真夏は、まずゴーヤをじっと見た。
苦いものだと知っている顔だった。
けれどひと口食べると、目をぱちぱちさせた。
「にがくない」
苦みも癖も前へ出てこない。
歯に触れる食感だけがよくて、噛むたびに口の中へすっと爽やかさが広がる。残暑の重たさが少しゆるむような味だった。
「ほんとだ」
陽菜も箸を進める。
梨花が切ったピーマンは、緑と赤に分かれていて、皿の中で思いのほかきれいだった。まだ夏の野菜なのに、どこか秋の入口みたいな色をしている。
豚の脂が野菜にからみ、砂糖醤油が強すぎず残る。
ごはんが進む。
味噌汁を飲むと、かぼちゃの甘みがやさしく返ってくる。
真夏も陽菜も、いつもより食が進んだ。
祭りの日の緊張より先に、ちゃんとおなかが温まっていく。
🌿 真夏の目
真夏は箸を動かしながら、皿の中をよく見ていた。
庭で見ていたピーマンが、こうなる。色が分かれて、形が整って、だれかの口へ入っていく。
野菜は形を変えて料理になる。
魚もそうだ。
昨日見たたこ焼きの中のたこもそうだった。生きていたものが、おいしい形へ変わる。
わたあめだって、砂糖だ。
砂糖はきびという植物からできる。その作業が大変なのを、真夏は前に見せてもらったことがある。だから無駄にしてはいけないし、使えば使うほどいいわけでもない。ちょうどいい加減がある。砂糖だけでも、いろいろなお菓子になる。
同じものが、別の形になる。
それを思うと、料理は魔法ではなく、ちゃんと手がかかった変化なのだと、真夏は子どもなりに感じていた。
そしてゴーヤを噛みながら、ふと昨日のたこを思い出す。
梨花が作った、たこの煮物。
やわらかくて、噛むと味が出た。
あれを思い出すと、生のたこも食べてみたいと真夏は思った。
煮たらどう変わるのか。焼いたらどう違うのか。その前の姿はどんな味なのか。知りたいことが、また一つ増えた。
梨花はそんな真夏の顔を見ても、深くは聞かない。
ただ、味噌汁のお椀を少し真夏の近くへ寄せた。
🎐 出発の支度
食後、家の中はまた祭りの動きに戻った。
法被。器。荷物。声をかけ合う音。伯父も伯母も、それぞれの役目へ向かっている。
梨花は真夏と陽菜を呼び寄せ、小さなポシェットをそれぞれの肩にかけた。
中には梅干しと塩昆布が入っている。
「暑くなったら、少しずつ」
そう言う声は短い。
けれど、その言葉の中には、今日一日の暑さと人混みと働く時間を見越した気遣いがきちんと入っていた。
真夏はすぐに自分のポシェットをのぞきこみ、陽菜は少し大人びた顔でうなずく。
「わかった」
「任せて」
梅干しの酸っぱさ。
塩昆布の塩気。
祭りへ向かう子どもたちの小さな備えとしては、これ以上ないくらい確かだった。
庭の菜園には、朝の光がもうしっかり当たっていた。
祖母が遺した土。真夏が世話する葉。梨花が料理に変える手。そこから始まった朝の力を、それぞれ少しずつ体に入れて、みんな祭りへ向かうのだった。
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