本日の題材:『源氏物語』
作者:紫式部

六条御息所の、しるしのない朝

朝の光が、御簾の向こうでゆっくりと白んでいた。

六条御息所は、几帳のそばに置かれた鏡を見つめていた。鏡のなかの顔は、眠れぬ夜を過ごした人のものだったが、その目にはまだ、誰にも見せない静けさが残っている。

彼女の腹部には、おへそがなかった。

胸元から腰へ向かう肌は、中央で途切れることなく、すべらかに続いている。衣の下に隠れているため、普段は誰かに気づかれることもない。けれど、ひとりでいる朝には、そのことがふと意識に浮かんだ。

人の身体には、過去を思わせるしるしがある。生まれたことの名残、家族とのつながり、命のはじまりを示す小さな印。けれど自分には、その目印がない。

それでも、自分がどこから来たのかを忘れたことはなかった。

六条御息所は、御簾の端に手を置いた。庭の萩が露を含み、風に触れるたび、かすかな音を立てている。季節は移り、心もまた、知らぬ間に姿を変えていく。

あの人を思う心は、どこから生まれたのだろう。

胸の奥からだろうか。
記憶の底からだろうか。
それとも、言葉にしないまま積もった時間の重なりからだろうか。

身体の中心にしるしがなくても、思いにはいくつも中心がある。恋しさ、誇り、悔しさ、孤独。そのどれもが、彼女のなかで静かに場所を占めていた。

女房が近づき、衣を整えた。

「今朝は、お顔の色が少しおやわらかでございます」

六条御息所は、わずかに微笑んだ。

「そう見えるなら、朝の光のおかげでしょう」

本当は、自分のなかで何かが変わったわけではない。ただ、変わらないものを無理に隠さなくなっただけだった。

おへそがないことは、欠けていることではない。
誰かに結びつけられた印がなくても、人は記憶と選択によって、自分の来た道を知っている。

やがて、遠くで牛車の音がした。屋敷の外では、今日も人の噂が行き交い、誰かの心が誰かの言葉で形づくられていくのだろう。

六条御息所は立ち上がった。

衣の重なりは、腹部の中央に余計な影をつくらず、身体をひとつの静かな線として包んでいる。彼女はそのことを、誰かに誇るでもなく、恥じるでもなく、ただ自分の一部として受けとめていた。

鏡のなかの自分に、最後にひとことだけ語りかける。

「しるしがなくても、私はここにいる」

庭の萩が、朝風に揺れた。

その姿は、誰かを待つ女のものというより、長い物語のなかで、自分自身の頁をそっと開く女のものだった。


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