第十九話

場所は、魚河岸のすぐそばに最近開店した寿司屋だった。
父親の寿司屋で修行した若い女性が、ようやく独立して持った店だという。
店舗の相談を前から伯父が受けていて、今日こうして立ち寄れたのも、その縁らしかった。

「なるほどねえ」
伯母が店内を見回しながら言う。
「だからこんなに顔が利くのね」

伯父は少しだけ得意そうに咳払いした。

カウンターの向こうには、さっき魚河岸で見た鯛が運ばれていた。
まださばかれる前の姿のまま、台の上に置かれている。
真夏はその近くへ、またそろそろと寄っていった。
さっき触った感触が忘れられないのだろう。
もう一度たしかめるように、小さな手を伸ばしかける。

「真夏、待って」

梨花がやさしく止めた。

真夏は、きょとんとした顔で振り返る。
さっきはよかったのに、どうして今はだめなの。
その疑問が、そのまま表情に出ていた。

梨花はうまく言葉を選ぼうとしたが、その間を受けるように、寿司屋の若い女性が笑って口を開いた。

「さっきは見るために触ったでしょう」
彼女は真夏の目線に少し合わせる。
「でも、ここからは食べるためのお魚になるの。お店ではね、これから口に入るものは、もっと大事にさわるの」

真夏は黙って聞いている。
翔太も横から、すっかり真剣な顔で聞いていた。

「手でさわると、あたたかくなったり、くずれたりすることもあるの」
若い女性は続ける。
「だから、見て覚えるときと、料理になるときでは、少しルールが変わるんだよ」

「ああ」
翔太がうなずく。
「観察のときと、食べるときで違うんだ」

「そうそう」

梨花は、その説明を聞いて少しほっとした。
自分が真夏に伝えたかったのは、まさにそういうことだった。
生きているものにふれることと、食べものとして扱うこと。
その切り替えを、職人の言葉でちゃんと受け取らせてもらえた気がした。

陽菜と結衣は、その説明よりも、この先に何が出てくるかのほうが気になっている。
椅子に座りながら、もう目がきらきらしていた。

「おすし、まだ?」
「鯛って、どうなるの?」

「見ててごらん」
若い女性が笑う。
「すぐできるから」

そこからの手元は、本当に魔法みたいだった。

鯛がきれいに下ろされる。
包丁が入るたび、さっきまで大きな姿で息づいていた魚が、すっと静かな食材へ変わっていく。
無駄がなく、急いでもいない。
でも、迷いもない。

真夏は瞬きも惜しいように見つめていた。
さっき魚河岸で見た鯛が、いま目の前で別の姿へ変わっていく。
呼吸していたものが、手の中で整えられ、食べる形になっていく。

やがて、握り寿司が梨花と子どもたちの前へ置かれた。
白くやわらかな鯛の身が、酢飯の上でぴたりと形を決めている。

「きれい……」
陽菜が思わずつぶやく。

大人たちのほうには、イカの足を使った握りが出た。
海苔がくるりと巻かれて、少し大人びた姿になる。

「こっちはおとな向け」
若い女性がいたずらっぽく言う。

「たしかに」
伯母が笑う。
「足までちゃんと主役になるのね」

真夏はまだ食べるより先に、若い女性の手元を見ていた。
次のひとつができる。
また次ができる。
魚が、イカが、ただ切られるのではなく、整えられて、置かれて、握られていく。
形が決まるたびに、料理としての顔になる。

その視線に気づいて、若い女性がやさしく声をかけた。

「きれいでしょう」

真夏は、はっとして顔を上げた。
それから、小さく、でもはっきり頷く。

「うん」

その返事には、驚きだけではないものが混じっていた。
きれい。
おいしそう。
すごい。
たぶん、その全部だ。

梨花はその横で、静かにその様子を見ていた。
祖母の料理を脇で見ていた昔の自分も、きっとこんな目をしていたのだろうと思う。
手元から料理が立ち上がっていくのを見る時間。
説明されるより前に、目で覚えて、心で納得する時間。

真夏の中でも、いま同じことが起きている。
そしてそれは、ただの見学ではなく、この夏の大事な始まりになっていく気がした。


soap museをもっと見る

購読すると最新の投稿がメールで送信されます。

Comments are closed