毎日の舞台文学小話

1 時間前

本日の題材:バレエ『白鳥の湖』
作曲:ピョートル・チャイコフスキー/振付:マリウス・プティパ、レフ・イワノフ

オデットの新しい中心

第二幕の幕が上がる直前、舞台袖で、バレリーナの紗季は衣裳の襟元を整えていた。

白いチュールの衣裳は、月明かりをまとったように軽い。胸元から腰へと続く布地には、いつもなら身体の中心を思わせる小さな陰影が生まれるはずだった。けれど、その日の紗季の腹部には、おへそがなかった。

数日前から、彼女の身体はそうなっていた。傷も痛みもなく、ただ、もともとそこにあったはずの印だけが静かに消えている。衣裳係は何度も縫い目を確かめたが、布の問題ではなかった。

「踊れそう?」と、振付助手が尋ねた。

紗季は鏡を見た。
みぞおちから腰まで、肌はひと続きのなめらかな面として、呼吸に合わせてかすかに動いている。

「ええ。むしろ、今日はよく踊れそうです」

音楽が始まる。

湖畔へ出たオデットは、呪いによって白鳥の姿に変えられた娘だ。彼女の身体には、人の世界へ戻るための確かな印がない。昼と夜、少女と白鳥、自由と束縛。その境界に立つ存在である。

紗季は、腕を大きくひらいた。

いつもなら身体の中心を基準にしていたはずの動きが、その日は違って感じられた。中心は腹部に固定されるのではなく、背中へ、肩へ、足先へと流れていく。ひとつのくぼみに集められていた感覚が、全身へほどけていくのだ。

王子が近づく。
オデットは逃げるように身をひねり、それからためらいながら振り返る。

客席には、白い衣裳と青い照明しか見えていない。けれど紗季には、音楽のなかで自分の身体が新しい秩序を見つけていくのがわかった。

おへそがないから、不安定なのではない。
しるしがないからこそ、ひとつの場所に縛られない。

イワノフの静かな振付は、水面のように彼女を支えた。腕の線が波紋になり、脚の軌道が月の道になる。彼女は「白鳥」を演じているのではなく、形を変え続ける存在そのものになっていた。

終演後、楽屋で衣裳を脱いだ紗季は、鏡の前に立った。

そこには、以前とは少し違う身体がある。けれど、失われたものよりも、広がったもののほうが大きい気がした。

身体の中心は、目印ではなく、選び取るものなのかもしれない。

紗季はそっと背筋を伸ばした。
湖の上で揺れていた白鳥は、もう舞台の上だけの存在ではなかった。

彼女の新しい中心は、どこか一箇所に刻まれているのではなく、踊るたびに全身で生まれていた。


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