
ヘルベルト・フォン・カラヤン
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 ホ短調 作品93
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
Deutsche Grammophon 2532 030


ショスタコーヴィチの音楽を聴くとき、旧ソビエト連邦の歴史を、その音楽人生から切り離して考えることは難しい。
ストラヴィンスキーやベルクの影響を受けた前衛的な作風から出発し、やがて社会主義リアリズムという巨大な国家的理念のもとで作品を書き、ロシア革命や社会主義国家の建設をめぐる時代そのものを音楽の中へ取り込んでいった作曲家。ショスタコーヴィチの交響曲には、いつも音楽の外側にある巨大な歴史の影が落ちている。
そして、この第10番ほど、その影を語らずにはいられない作品も少ない。
しかし、カラヤンの指揮を聴いていると、私は不思議な感覚に襲われる。
そこにあるのは過去のソビエトではなく、遠い未来の情景なのではないか。
カラヤンは、この作品を歴史資料として扱わない。スターリン時代の恐怖を再現しようとも、ショスタコーヴィチの「ロシア性」を強調しようともしていない。むしろ彼は、楽譜の中から政治や民族や時代をいったん取り除き、その下に眠っている巨大な音響構造だけを取り出している。
だから、ショスタコーヴィチらしい暗さは確かにあるのに、響きは驚くほどゴージャスだ。
そして、ロシア臭くない。
これは、この演奏の最大の特徴だと思う。
第一楽章冒頭から、ベルリン・フィルの弦は深く沈みながらも濁らない。木管の孤独な声も、ロシアの大地から聞こえてくる民謡のようではなく、巨大な無人の建築物の内部に浮かぶ音響の断片のように響く。カラヤンは旋律を「歌わせる」というより、音そのものを磨き上げ、その音が巨大な空間の中でどのように光を反射するかを見つめている。
そして第二楽章。
ここには、スターリンの肖像があると言われてきた。
けれども、このカラヤンの演奏から聞こえてくる人物像は、私たちが歴史写真の中に見るスターリンとは少し違っている。
暴君の肖像というより、巨大な機械そのもの。
鋭いリズム、乾いた打撃、ベルリン・フィルの恐ろしいまでに正確なアンサンブル。そこには政治的な怒りを説明するような身振りがほとんどない。むしろ音楽は、ひとりの独裁者を超えて、もっと抽象的な「力」の姿へと変貌していく。
だからこそ怖い。
そして美しい。
カラヤンはショスタコーヴィチを「ロシアの作曲家」としてではなく、20世紀という時代が生み出した巨大な音響作家として見ていたのではないだろうか。
そう考えると、この第10番がカラヤンに選ばれたことも、少し違って見えてくる。
第10番がショスタコーヴィチの交響曲の中でどれほど一般的な人気を持つ作品なのか、私はよく分からない。けれども、カラヤンの美学を反映させるという一点から考えれば、これほど適した作品はなかったのではないかと思う。
なにしろ、音響的に美しい。
巨大な弦楽合奏、金管の輝き、打楽器の鋭利な輪郭、そして暗闇の中から突然浮かび上がる木管群。複雑な内部構造を持ちながら、それらはベルリン・フィルによって一枚の巨大な鏡のように磨き上げられる。
カラヤンが得意としたもの――暗い音楽を、冷たいほど美しくすること。
この第10番では、その美学がほとんど極限まで行われている。
ベルリン・フィルという最高の機能集団を、カラヤンはまるで巨大な一台の楽器のように扱っている。弦楽器のユニゾンには一本の太い光が走り、金管は壁の向こうから押し寄せるように現れ、弱音では音の輪郭が消える寸前まで音量を絞る。
ここまで徹底すれば、もう「解釈」という言葉さえ必要なくなる。
ただ、音楽がある。
そして、その音楽が美しい。
それでいいのではないか、と私は思う。
カラヤンがデジタル録音の初期に残したこのレコードの最大の価値も、そこにあるのではないだろうか。
録音技術がアナログからデジタルへ移行しようとしていた時代に、カラヤンはショスタコーヴィチの第10番を、歴史的文脈の証言としてではなく、未来へ持っていくための音響作品として録音した。
そこには、ショスタコーヴィチを理解するための政治的な注釈がなくてもいい。
ソビエトの歴史を知らなくてもいい。
スターリンの肖像を知らなくてもいい。
ただ、ベルリン・フィルの音を聴けばいい。
それが、このレコードの大胆さなのだと思う。
私は、カラヤンが20世紀音楽を録音対象として選ぶとき、かなり厳選していたように感じる。
本当の意味での20世紀音楽とは何か。
私自身は、それをトーン・クラスターの発明以後に始まったものとして考えている。音を旋律や和声だけでなく、ひとつの巨大な塊として扱う発想。そこから音楽は、これまでとは違う時間と空間を獲得していった。
ところがカラヤンは、その未来を知っていたかのように、20世紀の前衛音楽を何でも録音したわけではない。
選んだ作品には、いつも「響くもの」がある。
そしてショスタコーヴィチの第10番は、その意味で非常にカラヤン的だったのではないか。
前衛そのものではない。
しかし、伝統的な交響曲の巨大な形式の中に、20世紀的な音響の可能性が潜んでいる。その音響を、ベルリン・フィルの機能美によって最大限まで拡大できる。
カラヤンは、過去を振り返っていたのではない。
未来に残る音を作ろうとしていた。
そう考えると、この演奏の「ロシアらしくなさ」さえも、欠点ではなく、むしろ核心になる。
ショスタコーヴィチの第10番からソビエトという固有名詞を取り去ってしまったとき、最後に残るものは何なのか。
それは、暗闇と光、恐怖と歓喜、沈黙と爆発が交錯する、巨大な音響建築である。
そして、その建築をこれほど美しく磨き上げられる指揮者は、カラヤン以外にはほとんど考えられない。
このレコードが発売から100年を経たときにも、私はきっと聴かれていると思う。
そのとき聴き手は、スターリンの肖像を知らなくてもいい。
ソビエトの歴史を知らなくてもいい。
ただ針を落とし、ベルリン・フィルが奏でる、冷たく、暗く、そして眩しいほど豪華な音響を聴けばいい。
これは「カラヤン唯一のショスタコーヴィチ」という珍品ではない。
政治的な注釈から自由になったショスタコーヴィチ。
そして、ベルリン・フィルという最高の機能集団を使って成し遂げられた、究極の快楽演奏。
何の注釈もなしに楽しめる音楽を、後世に残す。
ひょっとすると、それこそがカラヤンの目指していた未来だったのかもしれない。
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