もちろんです。フランツ・シュミット(1874–1939)の4曲の交響曲は、後期ロマン派の巨大な響きを保ちながら、作品ごとに「若い作曲家の修業」「巨大な交響的建築」「古典への回帰」「喪失と死の受容」へと進んでいく、非常に興味深い軌跡を描いています。

なお、第4番については作曲者自身が「娘へのレクイエム」と位置づけていますが、単純な私的悲歌としてだけでなく、人生そのものを回顧し、最後に受容へ至る作品として読むことができます。(The Franz Schmidt Project)


フランツ・シュミット――4つの交響曲

まず全体像

交響曲調性作曲年楽章中心的性格
第1番ホ長調1896–99頃4楽章若きシュミットの自己紹介、古典的交響曲への挑戦
第2番変ホ長調1911–133楽章巨大な交響的建築、豊饒な対位法
第3番イ長調1927–284楽章シューベルト的抒情と現代的和声
第4番ハ長調19331つの連続体娘へのレクイエム、死と生の回想・受容

シュミットはウィーンでチェロ奏者として活動し、マーラーの指揮するオーケストラでも演奏しました。一方で、シェーンベルクら同時代の前衛にも無関心だったわけではありません。しかし自身の作曲では、無調へ進むよりも、シューベルト、ブラームス、ブルックナー、ワーグナー、R・シュトラウスにつながる調性音楽を高度に発展させる道を選びました。(Classical.net)


交響曲第1番 ホ長調

――若き作曲家が「自分は何者か」を示した交響曲

1896年頃、シュミット22歳前後の作品です。完成まで数年を要し、1902年にウィーンで初演されました。(Paul Archibald Sounding Out)

これは単なる習作ではありません。

もちろんワーグナー、ブルックナー、R・シュトラウスなどの影響は明瞭ですが、すでにシュミット特有の、

  • 対位法の巧みさ
  • 木管楽器を細かく組み合わせる能力
  • 分厚い弦楽合奏
  • 主題を別の形に変換していく技術

が現れています。

第1楽章

冒頭から、若々しいエネルギーを持つ音楽が展開します。

弦楽器が単に「伴奏」をするのではなく、複数の旋律線が互いに絡み合い、そこへ木管、金管が加わっていきます。

ここで重要なのは、シュミットが巨大なオーケストラを「一枚の音の壁」としてではなく、複数の声部が動く巨大な室内楽として扱っていることです。

ワーグナー的な和声の濃厚さと、ブラームス的な主題展開が同居しています。

つまりこの楽章は、

「私は後期ロマン派の伝統を受け継ぐ。しかし、それを自分自身の対位法で組み直す」

という若きシュミットの宣言のように聴こえます。

第2楽章

第2楽章では速度が落ち、旋律の表情が前面に出ます。

弦楽器の長い旋律に木管が応答し、和声はワーグナー的な半音階性を帯びます。

しかし、マーラーのような劇的な「世界の崩壊」ではありません。

むしろ、内側へ沈み込むロマンティシズムです。

第3楽章――Scherzo

この交響曲で特に面白いのがスケルツォです。

木管の細かな動き、弦のリズム、金管のアクセントが非常に活発に組み合わされます。

若々しく軽快ですが、単純な「楽しい舞曲」ではありません。

シュミットはここで、リズムそのものを交響的な素材にしています。

後のシュミットの特徴となる、複数の旋律が同時に動きながら、全体として一つの巨大な流れになる作曲法がすでに見えます。第1番のスケルツォは、ブルックナーとR・シュトラウスの吸収が特に鮮明な部分です。(ウィキペディア)

第4楽章

終楽章では、それまでに登場した素材をより大きなスケールで統合します。

特に注目したいのがコラール的な金管の響きと対位法です。

ここでシュミットは、

個々の旋律
↓
複数の声部
↓
オーケストラ全体

という構造を作り上げます。

若い作曲家が「大きな交響曲を書く」だけでなく、巨大な音楽を論理的に制御する能力を示した作品なのです。


交響曲第2番 変ホ長調

――シュミットの「巨大な交響的建築」

1913年に完成した第2番は、第1番から約15年を経ています。

ここではシュミットの世界が一気に巨大化します。

この曲は4曲中最も大規模なオーケストレーションを持ち、8本のホルン、4本のトランペットなど、非常に大きな金管セクションを要求します。(MusicWeb International)

そして面白いのは、3楽章しかないことです。

ただし第2楽章が巨大な変奏曲になっており、その内部に緩徐楽章とスケルツォに相当する性格が組み込まれています。


第1楽章

非常に堂々とした開始です。

弦楽器が細かく動く中から、木管が旋律を取り出し、ホルンやトランペットが巨大な響きを形成します。

ここでの金管は単なる「力強さ」のためではありません。

ホルン、トランペット、トロンボーンなどが、

  • 主題を提示する
  • 主題を拡大する
  • 対位旋律を作る
  • クライマックスを形成する

という複数の役割を担います。

そのため、音量が大きいにもかかわらず、内部では非常に緻密です。

この楽章には牧歌的な性格もあり、シュミットは巨大なオーケストラによって自然の広がりと人間の生命力を描いているように感じられます。第2番第1楽章をシュミット入門として推薦する評価もあり、豊かな管弦楽法と牧歌的な第2主題が特に高く評価されています。(MusicWeb International)


第2楽章――変奏曲

ここが第2番の核心です。

一つの主題から多数の変奏を作りながら、

緩徐楽章 → スケルツォ → 緩徐的性格

を一つの巨大な流れとして組み立てます。

つまり、

「交響曲には第1楽章、緩徐楽章、スケルツォ、終楽章がある」

という19世紀的な形式を、一つの巨大な変奏曲の中へ折り畳んでしまったわけです。

木管による繊細な変奏では室内楽的になり、弦楽器が旋律を受け持つと抒情的になり、金管が加わると巨大な交響的建築へ変貌します。

特に面白いのは、同じ主題が、

  • 優しい
  • 暗い
  • 軽快
  • 荘重
  • 壮大

と姿を変えることです。

これは単なる技巧ではなく、

一つの生命が、時間の中で様々な姿を見せる

という変奏曲本来の意味を、シュミットが交響曲全体のレベルまで拡大したものと考えることができます。


第3楽章――Finale

終楽章では再び巨大なエネルギーが戻ります。

ここでは第1楽章の牧歌的な性格も思い出されます。

弦、木管、ホルンが旋律を受け渡し、やがて金管が加わって巨大なクライマックスへ向かいます。

第2番全体を一言で言えば、

「多様な人生・自然・感情を、一つの巨大な音楽的秩序へ統合する」

交響曲です。

ブルックナー的な巨大さ、R・シュトラウス的な色彩、レーガー的な対位法が一体になっています。


交響曲第3番 イ長調

――シューベルトの影をまとった「光の交響曲」

1927~28年。

第2番から実に15年近く空いています。

この作品はシューベルト没後100年を記念するコロンビア・グラモフォンの国際作曲コンクールのために書かれました。

オーストリア部門で優勝し、最終的にはスウェーデンのクルト・アッテルベリの交響曲第6番に次ぐ第2位となりました。1928年12月2日にウィーン・フィルが初演しています。(Paul Archibald Sounding Out)

ここでシュミットは第2番の巨大さから一歩引きます。

音楽はずっと明るく、透明で、旋律的です。

しかし、この「明るさ」は単純ではありません。

内部にはかなり高度な和声と対位法があります。つまり、

表面はシューベルト的、内部は20世紀的

なのです。


第1楽章

冒頭から牧歌的な旋律が現れます。

弦楽器と木管楽器が互いに旋律を受け渡し、ホルンが自然な広がりを加えます。

第2番のような巨大な建築というより、

野原を歩きながら様々な旋律を耳にするような音楽

です。

ただし、和声は意外に大胆です。

シュミットは「古い音楽」を再現しているのではなく、シューベルト的な歌の精神を20世紀の和声の中に置いています。


第2楽章――Adagio

ここでは時間の流れが大幅に緩みます。

木管と弦楽器が旋律を長く歌い、音楽は内省的になります。

重要なのは、ここでシュミットが「巨大な悲劇」を作っていないこと。

第2番の巨大なクライマックスとは対照的に、

記憶、郷愁、静かな思索

のような性格があります。


第3楽章――Scherzo

ここで突然、音楽が軽くなります。

弦楽器のリズムと木管の細かな動きが絡み、非常に躍動的。

しかし、シュミットのスケルツォには常に少し陰影があります。

完全な無邪気さというより、

人生は明るい。しかし、その明るさは永遠ではない

というような感覚です。


第4楽章――Finale

終楽章ではコラール的な響きから始まり、次第に活気を増していきます。

最後には舞曲的なエネルギーが爆発します。

この終結は第4番とは正反対です。

第3番では、

生命 → 運動 → 舞踊 → 光

へ向かいます。

そのため第3番は、シュミットの4曲の中では最も「外向き」の交響曲だと言えるでしょう。


交響曲第4番 ハ長調

――「レクイエム」が、人生そのものの回想へ変わる

そして第4番です。

1933年完成。

この直前、シュミットの娘エンマが出産後に突然亡くなりました。シュミット自身がこの作品を**「私の愛する娘へのレクイエム」**と呼んでいます。1934年、オスヴァルト・カバスタ指揮ウィーン交響楽団によって初演されました。(The Franz Schmidt Project)

この作品の最大の特徴は、

4楽章なのに、途中で一度も止まらない

ことです。

表面上は、

  1. Allegro molto moderato
  2. Adagio
  3. Molto vivace
  4. Tempo primo

という4つの部分があります。

しかし実際には、一つの巨大な音楽です。(ウィキペディア)


第1部――Allegro molto moderato

トランペット=人生の始まり

冒頭。

無伴奏トランペットが一人で長い旋律を吹きます。

これは非常に異例です。

通常、交響曲の冒頭なら弦楽器や全管弦楽によって世界が作られます。

ところがシュミットは、

たった一本のトランペット

から始める。

その後、低弦のピッツィカートなどが入り、次第にオーケストラが形成されていきます。(ウィキペディア)

このトランペット主題は単なる「第1主題」ではありません。

シュミット自身は、この旋律について、人生を生きて死んでいく人間が「彼岸へ持っていく最後の音楽」のような意味を持つと説明しています。(Universal Edition)

だから冒頭のトランペットは、

誕生以前から死の彼方まで続く、人間の存在そのもの

を象徴するように聴こえます。


第1部後半

オーケストラが巨大なクライマックスを形成します。

ここで重要なのは、冒頭の旋律が単純に繰り返されるのではなく、様々な調性、リズム、楽器へ姿を変えていくことです。

特に弦楽器の美しい第2主題は、第1部の中で大きく歌い上げられます。

この音楽についてシュミットは、後の再現を「美の中の死――そこで人生全体がもう一度過ぎ去っていく」という趣旨で説明しています。(Universal Edition)

つまり第1部は、

人生を生きることそのもの

なのです。


第2部――Adagio

チェロ=シュミット自身の声

ここで音楽は突然、深い内面へ入ります。

冒頭を担当するのは、独奏チェロ。

これは極めて意味深い。

シュミット自身がチェロ奏者だったからです。

したがって、このチェロは単なるソロ楽器ではなく、

作曲者自身が自分の声で娘を悼んでいる

ように聴こえます。

実際、この部分はシュミット自身によって「娘へのレクイエム」とされています。(CloudFront)


葬送行進曲

チェロの悲歌は次第に巨大な葬送行進曲へ変化します。

弦楽器、木管、金管が次々と加わり、音楽は巨大化。

ここにはベートーヴェン《英雄》の葬送行進曲を思わせる構造も指摘されています。さらにクライマックスでは打楽器が加わり、鐘を思わせるゴングやシンバルが強烈な頂点を作ります。(ウィキペディア)

しかし、ここでシュミットは悲劇を「爆発」で終わらせません。

クライマックスの後、

音楽が逆向きにほどけていく。

そして再びチェロの世界へ戻ります。

これは非常に重要です。

悲しみを乗り越えて「忘れる」のではなく、

悲しみを経験したまま、もう一度記憶の中へ戻る

のです。


第3部――Molto vivace

――死の後に突然戻ってくる「生命」

ここが第4番の最も驚くべきところです。

第2部があれほど深い悲しみに沈んだ直後、突然スケルツォが始まります。

しかも非常に活発です。

木管、弦、ホルンなどが複雑な対位法で動きます。

ただし、このスケルツォは「悲しみを忘れた」のではありません。

第1部の素材がスケルツォの中へ入り込んでいます。

つまり、

過去の人生が、記憶として現在の生命活動の中に残っている。

という構造です。

ここでシュミットは、

悲しみ
↓
それでも続く生命
↓
記憶として残る死者

という非常に人間的な心理を、形式そのものにしています。


第4部――Tempo primo

――最初のトランペットが戻ってくる

そして最後に、冒頭の世界へ戻ります。

ホルンが重要な役割を担いながら、オーケストラ全体が再び第1部の音楽を思い出していきます。

そして最後に、

冒頭のトランペット主題が再び現れます。

しかし、最初と同じ意味ではありません。

最初は、

「これから人生が始まる」

ように聴こえた旋律が、

最後には、

「人生をすべて経験した者が、彼岸へ持っていく音楽」

へ変化しています。

これこそ第4番最大の構造的アイデアです。

同じ音楽が、経験によって意味を変える。

Universal Editionの解説も、この冒頭主題が終結時に再現されることで、作品全体が一周して「同じものを新しい耳で聴く」構造になることを強調しています。(CloudFront)


4曲を並べると見えてくるもの

シュミットの4交響曲を、一人の人間の精神的な旅として聴いてみると、とても面白いです。

第1番

「私は作曲家として何ができるのか」

若いシュミットが、ワーグナー、ブルックナー、R・シュトラウスらの巨大な伝統に挑戦する。

↓

第2番

「世界を一つの巨大な秩序にできるか」

巨大なオーケストラと変奏曲によって、無数の旋律を一つの建築へ統合する。

↓

第3番

「過去の美しさを、現代に蘇らせる」

シューベルトを思わせる明るい旋律を使いながら、和声と対位法では20世紀へ進む。

↓

第4番

「失われたものを抱えたまま、生きる」

娘の死をきっかけに、人生、記憶、悲しみ、生命、そして死を一つの連続した音楽へ統合する。


そして、第4番は「死の音楽」だけではない

ここがシュミットの第4番を聴く上で一番大切なところだと思います。

一見すると「娘の死を悼むレクイエム」ですが、音楽の構造を見ると、

死 → 悲嘆 → 記憶 → 生命 → 回想 → 受容

という循環になっています。

だから最後のトランペットは、冒頭よりもむしろ穏やかに聴こえることがあります。

死が消えたわけではない。

悲しみが消えたわけでもない。

しかし、それらを経験した後では、同じ旋律が別の意味を持つ。

この「同じ主題が、人生を一周したことで別の意味になる」という発想こそ、第4番をシュミットの最高傑作と評価する大きな理由の一つです。Oxford Academicのマイケル・スタインバーグも、第4番をシュミットの作品群の中でも特に雄弁で印象的な作品と評価しています。(OUP Academic)

第1番が「若者の交響曲」、第2番が「建築家の交響曲」、第3番が「回想する詩人の交響曲」だとすれば、第4番は「人生を振り返る人間の交響曲」――私はこのように4曲を位置づけると、シュミットの全体像が非常に見えやすくなると思います。


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