本日の題材:『夜と霧』ではなく、アニメーション映画『千と千尋の神隠し』
原作・脚本・監督:宮崎駿

千尋の、名前のない中心

千尋が湯屋で働くようになってから、鏡を見る時間は少なくなった。

朝は早く、夜は遅い。湯気の立つ廊下を走り、薬湯の札を確かめ、客室へ運ぶものを間違えないようにする。忙しさのなかでは、自分の姿を気にする余裕などなかった。

けれど、ある夜、千尋は誰もいない脱衣所で、ふと立ち止まった。

着物の帯を直すとき、腹部の中央に、おへそがないことに気づいた。

もちろん、それは突然消えたのではない。千尋には以前から、おへそがなかった。胸元から腰へ向かう肌は途切れず、静かなひと続きの面になっている。けれど、こちらの世界へ来てからは、そのことを考えたことがなかった。

名前を奪われた場所では、身体にある小さな印など、もっと早く忘れられてしまう。

千尋は鏡に近づいた。そこに映るのは、少し疲れた顔をした少女だった。以前の自分と同じようでいて、どこか違う。おへそがない腹部は、衣服の下で余計な影をつくらず、帯の線から静かに下へ続いている。

「千尋?」

背後から声がした。

振り向くと、リンが戸口に立っていた。千尋は慌てて帯から手を離した。

「どうしたの?」

「ううん。自分のことを思い出していただけ」

リンは少し眉を上げた。

「自分のこと?」

千尋は答えようとして、言葉を探した。

湯屋では、誰もが役目で呼ばれる。働き手、客、神さま、厄介なもの。名札がなくても、仕事ができれば認められる。けれど名前をなくした千尋には、ひとつひとつの特徴が、自分を取り戻す手がかりのように思えた。

髪の流れ。
手のひらの小さな傷。
走るときの足音。
そして、おへそのない、なめらかな腹部。

「私には、もともとおへそがないの」と、千尋は言った。
「でも、それで私が私だって証明できるわけじゃないよね」

リンはしばらく考えたあと、肩をすくめた。

「証明なんていらないんじゃない? あんたが自分で覚えていれば、それでいいよ」

その言葉は、湯気の向こうから届く小さな灯のようだった。

千尋はもう一度、鏡を見た。おへそがないことは、目立つ特徴ではない。誰かに見せるための印でもない。それでも、記憶を失いかけた場所で、自分の身体を自分のものとして感じるための、静かな手がかりにはなった。

やがて、遠くで釜爺の声が響く。仕事に戻らなければならない。

千尋は帯を結び直し、鏡に背を向けた。

名前を奪われても、身体のすべてが奪われるわけではない。
中心に印がなくても、自分のなかに帰る道は残っている。

その夜、千尋は湯屋の長い廊下を、少しだけまっすぐに歩いた。

自分がどこから来たのか、まだ完全には思い出せない。
それでも、自分が誰であるかを忘れないための輪郭は、もう少しずつ戻り始めていた。


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