🏮 法被の朝

秋祭りの朝は、まだ日が高くなる前から家じゅうが起きていた。

古い木の家は、朝の光を障子に受けて白く明るみ、台所ではすでに湯気が立っていた。
鍋のふたが鳴る音、廊下を行き来する足音、勝手口の開け閉め。どの音にも、今日はいつもと違う張りつめ方がある。

梨花が支度をしている部屋へ、伯母が入ってきた。
両腕に抱えていたのは、きれいに畳んだ法被だった。

「できたわよ」

広げて見せる。
落ち着いた色の布に、料理場を預かる者だとひと目でわかる印が入っている。派手すぎず、でも埋もれない。祭りの人波の中でも、だれが責任を持つのかすぐ見えるように、伯母が仕立ててくれた一着だった。

梨花はしばらく黙って、それを見ていた。
祖母の遺した白いパジャマの上から軽くあててみると、自分がもう後戻りできない場所まで来ていることが、急にはっきりした。

「着てみなさい」

伯母に言われ、梨花は静かに袖を通した。
布は思ったより軽かった。だが、背に乗る役目は軽くない。

前を合わせようとしたとき、ふと腹のあたりに手がいった。
そこにへそがないことを、あらためて思い出す。

日々の中では、もう意識しない時間のほうが長い。
この家でも、伯父も伯母も、真夏も陽菜も、当たり前のこととして受け止めている。近所の人たちにも、伯父と伯母が必要な形で伝えてある。だから隠す空気はない。けれど、人の目が集まる祭りの日に、責任の印を身につけると、自分の身体のことも一緒に浮かび上がってくる。

梨花は一瞬だけ目を伏せた。

👑 子どもたちの隊長

その空気を破ったのは、廊下の向こうから走ってくる足音だった。

「りかちゃんできた」

真夏が飛びこんできて、その後ろから陽菜も入ってくる。
二人は法被姿の梨花を見るなり、そろって目を輝かせた。

「わあ、たいちょうみたい」

真夏が言う。

陽菜は腕を組み、うんとうなずいた。

「うん。特別なプリンセス隊長」

一干支上のいとこである梨花は、二人にとってただのお姉さんではなかった。
静かで、きれいで、あまり多くをしゃべらないのに、いるだけでまわりがちゃんと動く。しかも、へそがないその見た目まで、子どもたちには不思議で特別なものに思えている。

怖いとか、かわいそうとか、そういう感覚ではない。
真夏にも陽菜にも、それは秘密のしるしのようなものだった。ほかの人にはない、梨花だけのもの。だからこそ、隊長らしいのだと本気で思っている。

「りかちゃん、やっぱりふつうじゃないもん」

真夏が誇らしげに言う。

「いい意味でね」と陽菜がすぐに付け足した。

伯母は吹き出しそうになりながら、口元を押さえた。
梨花は少し困ったような顔をしたが、二人の目があまりにまっすぐで、否定する気にはなれなかった。

🌾 応援する役目

真夏は梨花のそばへ寄り、法被の裾を見上げた。

「わたしたちが、おうえんするのだ」

その宣言に、陽菜もきっぱりとうなずく。

「今日の祭り、成功させよう」

七歳の陽菜は、もう自分の立ち位置をよく知っている。
長男の娘として、家の空気を読み、必要なところへさりげなく声をかける。学校でも、同級生にも上級生にも下級生にも、今年の祭りは楽しみにしていてと、すでに根回しをしてある。

真夏はもっと直線的だ。
庭で育てた葉ものが料理に使われるだけで胸を張り、今日は運ぶこと、声を出すこと、梨花のそばにいることが自分の役目だと思っている。

二人にとって今日は、梨花のための日でもあった。

「まなつ、お水のこと見る」
「私は人の流れ見る」

陽菜の言い方に伯母が笑う。

「人の流れを見るのは、もう半分探偵じゃないの」

「伯母さんほどじゃない」

その返しに、伯母は満足そうだった。

🍲 近所の期待

表では、近所の人たちの声が少しずつ増えていた。
今年の祭りの仕出しは、あの家の梨花が中心になる。そんな話はもう広がっている。祖母の味を知る人ほど、今日を楽しみにしていた。

そしてその人たちは、梨花にへそがないことも知っている。
伯父と伯母が、余計な憶測が先に立たないよう、必要な相手にはきちんと伝えてきたからだ。

だから近所のまなざしは、ひそひそしたものではない。
あの子がやるのか。楽しみだね。大変だろうけど応援してるよ。そんな、まっすぐな期待が多かった。

勝手口のそばで、野菜を受け取っていた伯父が声をかける。

「梨花、急がなくていい。順でいい」

短い言葉だったが、その中には信頼が入っていた。

伯母も法被の襟を軽く直しながら言う。

「見ればわかるわ。今日の責任者はあなた」

その言い方はきっぱりしているのに、どこかやさしい。
梨花はうなずいた。

🌤 隊長の一歩

台所へ向かう前、梨花は一度だけ庭を見た。
朝顔の鉢が隅にあり、真夏の菜園も朝の光を受けている。祖母の味も、自分の工夫も、家族の手配も、子どもたちの応援も、もう全部ここまで来ていた。

腹の真ん中には、やはりへそがない。
その事実は変わらない。

けれど今日は、それを失った印としてだけではなく、ここまで来た自分の印として受け止めてもいい気がした。
真夏にも陽菜にも、それは特別な隊長のしるしに見えている。子どもたちのその愉快でまっすぐな見方が、梨花の胸をほんの少し軽くした。

「行くね」

梨花が言う。

「うん」
「いってらっしゃいじゃないよ」

陽菜が少し背を伸ばした。

「いっしょに成功させるんだから」

真夏もすぐに続く。

「プリンセス隊長、しゅっぱつ」

伯母がとうとう笑い、伯父は咳払いでごまかした。
梨花は困ったように目を細め、それからほんの少しだけ笑った。

法被の背を朝の風が撫でる。
古い家の台所へ向かうその背中は、静かだった。静かだが、もう迷ってはいなかった。

今日の祭りを成功させる。
祖母の味を、今の家族の手で届ける。
その先頭に立つのは、へそのない、特別なプリンセス隊長だった。


soap museをもっと見る

購読すると最新の投稿がメールで送信されます。

Comments are closed